やれやれ

 今日でようやく非常食のパンを食べ終わる。非常食はご飯の方がやはりうまい。しかし、このところずっと食べていたせか非常食用パンにも慣れてきた。うまくはないが、いつも家からもってくるおにぎりがでは、それより各段にうまいかというと怪しい。血圧のことがあるので、いつものおにぎりには塩は使われていない。たまには市販のおにぎりを食べると、具よりも塩に感動してしまうのであった。

 このところ読んでいるマーロウもろくなものを食っていない感じ。ウィスキーばかり飲んでいる。今日は、「コッピー」という言葉がでてきた。コピーの紙のことみたいだが、もちろん今のようなコピーではないであろう。カーボン紙による複製みたいなものであろうか。そういえば、青焼きコピーというのがあったなと思い出す。『さらば愛しき人よ』は一九四〇年の発行らしいので、この当時こういうコピーはなかったはずだ。リコーのサイトをみたら、現在のようなコピー機の始まりは一九五〇年と書いてあった。清水俊二訳の「コッピー」はだから、この言葉でいいのかもしれない。

 昨日のハルキ言語の続きで、もうひとつ言葉を思い出した。「やれやれ」というやつである。言葉自体は古いと思うが、ハルキみたいな使い方はふつうはない。小説の翻訳からでてきた語用のような気がする。やれやれ、なんて日常生活で言っている奴がいたら、周囲の人間は引くであろう。「俺は待ってるぜ」みたいな言葉も同じである。会話のなかで使いそうな気もするが、実はあまりにすかしていて使えない、という言文一致語はときどきある。

 言文一致体は新しい書き言葉で口語ではない、というのは、もはや常識だと思うが、ハルキのすかした文体ももちろん口語ではない。口語自由詩などというが、これもまた口語ではない。ハルキ風の言文一致体として当方が詩でまず思いうかべるのは、谷川俊太郎の『夜中に台所でぼくはきみに話かけたかった』である。片桐ユズルの饒舌や清水哲男の語尾の「のさ」というのも思いうかべるが、詩でこの新しい言文一致体をうまく使いこなしたのは、やっぱり『台所』ではないかと思う。アメリカ詩人のぱくりであったかもしれないが、こんな風にぼやき風の詩を書いた人は、以前にはほとんどいなかったように思われる。

 ハルキ風の文に改行をして、最後に「やれやれ」と書いたら詩になるのだろうか。なんだかなってしまうような気もする 書き言葉に反発して、いきなり女子高生みたいな口調で書く人もいるがたいてい失敗している。口語を素朴に写そうとしているからであろう。口語と書かれた語りの文体の関係は、直喩みたいなもので、元は別々だというのに気付いてないのかもしれない。

 もんだいは文体の創出なので、単に現実の反映などではないのであった。だが、一口に文体の創出といっても、これはなかなか難しい。外国から文体をかっぱらってくるのがいちばん手っ取り早いが、そう簡単には定着しない。困ったもんだ。やれやれ。